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武蔵(むさし)は、第二次世界大戦中に建造された大日本帝国海軍の大和型戦艦の二番艦である。当時は武藏と表記された〔#達昭和15年11月(1)p.1『達第二百四十一號 三菱重工業株式會社長崎造船所ニ於テ建造中ノ戦艦一隻ニ左ノ通命名セラル 昭和十五年十一月一日 海軍大臣嶋田繁太郎 戦艦 武藏(ムサシ)』〕。この名を持つ大日本帝国海軍の艦船としては3隻目にあたる。また、武蔵は大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦でもあった。 == 建造過程 == 1934年(昭和9年)12月、大日本帝国(以下日本)は第二次ロンドン海軍軍縮条約の予備交渉が不調に終わったことを受けてワシントン海軍軍縮条約から脱退し、列強各国が軍艦の建造を自粛していた海軍休日は終わった。1936年(昭和11年)12月26日、上田宗重海軍艦政本部長が三菱重工最高幹部を招き、マル3計画における巨大新型戦艦建造について事前準備を依頼した〔#内藤レクイエム96-100頁、 #武蔵建造記録24-25頁〕。1937年(昭和12年)開催の第七〇回帝国議会で予算が承認され、3月29日に計画名「A140-F6」から第一号艦、第二号艦と仮称された〔#内藤レクイエム127頁〕(予算詳細は大和を参照)。9月8日、海軍艦政本部から三菱重工業に「A140-F6」が正式発注される〔#内藤レクイエム131頁、#武蔵建造記録33頁〕。予算見積折衝を経て、1938年(昭和13年)3月29日、第二号艦(武蔵)の建造が始まった〔#武蔵建造記録34頁「第4節 超々弩級戦艦の建造下命」〕。三菱重工業長崎造船所建造の戦艦としては、金剛型戦艦の霧島、伊勢型戦艦の日向、加賀型戦艦の土佐、天城型巡洋戦艦の高雄〔Ref.C08050173900「軍艦天城愛宕高雄製造一件(製造取止め)(2)」p. 22〕(八八艦隊未完成艦)に続いて5隻目となるが、土佐や高雄の4万トンから大和型7万トンへの飛躍には、ドック拡張を含めた技術者の研究と努力が必要だった〔#武蔵建造記録59頁「第3章、戦艦武蔵の受入準備」〕。 武蔵は設計段階から司令部施設の充実がはかられ、第一号艦で弱点と指摘された副砲塔周辺の防御力も強化された〔#内藤レクイエム138頁、#武蔵建造記録103-104頁〕。武蔵の艤装員だった千早正隆によれば特に副砲の防御力を懸念し、有馬馨艤装員長(初代艦長)と共に副砲の撤去を訴えている〔#海軍驕り47-48頁〕。艦政本部の清水技術中将が山本五十六連合艦隊司令長官に副砲防御力問題について相談すると、山本は「副砲を撤去して蓋をすれば良い」と述べた〔#海軍驕り191頁〕。これについて牧野茂(大和型戦艦設計陣)は山本と清水の会談は知っていたが内容についてまでは知らず「検討に値する提案なのに惜しい事をした」と千早に語っている〔#海軍驕り192頁〕。また司令部施設の充実について、千早は「暴論、定見を欠いた」と評している〔#海軍驕り79頁〕。1942年(昭和17年)1月、連合艦隊司令部から拡張要求があった時点で武蔵は大和と同じ内部構造だったが、内装の入れ替えに駆逐艦1隻分の工事費増加、3ヶ月の竣工遅延が生じた〔#海軍驕り77-78頁〕。宇垣纏連合艦隊参謀長も「大和に比して、当司令部の意見に従ひ改善せられたる点、相当多し」と記している〔#戦藻録(九版)166頁〕。 姉妹艦の大和や「110号艦(信濃)」同様本艦の建造は極秘とされ、艤装員(建造中の艦乗組員)は長崎造船所を秘匿した「有馬事務所」に勤務するよう命じられた〔#海軍驕り45頁、#武藏上34頁。太田清忠(機関科兵曹)談〕。機密にたいする警戒は厳重で、有馬馨艤装員長ですら、腕章を忘れると検問を通過できなかった〔#武藏上41頁、#豊田 レイテ151頁〕。外部に対しては、さまざまな方法で武蔵を隠す手段がとられた。船台の周囲には漁具(魚網等)に使う棕櫚(しゅろ)を用いた、すだれ状の目隠しが全面に張り巡らされた。全国から膨大な量の棕櫚を極秘に買い占めたために市場での著しい欠乏と価格の高騰を招き、漁業業者が抗議〔#武蔵ノート164-165頁〕。警察が悪質な買い占め事件として捜査を行ったとされる。また、棕櫚の目隠しが船台に張り巡らされると、付近の住民らは「ただならぬことが造船所で起きている」と噂し、建造中の船体を指して「オバケ」「魔物」と呼んでいたという〔#武藏上53-54頁、 #武蔵ノート108、173頁〕。 また、対岸にはアメリカ・イギリスの領事館があったため、目隠しのための遮蔽用倉庫(長崎市営常盤町倉庫)を建造するなど、建造中の艦の様子が窺い知れないような対策を施した〔吉村昭 「戦艦武蔵」(新潮文庫)ISBN 4101117012 〕。長崎住民に対する監視も厳しく行われ、造船所を見つめていると即座に叱責を受けて体罰を受けたり〔#武藏上47頁、川原熊次郎(技師)談〕、逮捕されることもあった〔#武蔵ノート122頁〕。造船所を見渡す高台にあったグラバー邸や香港上海銀行長崎支店を三菱重工業が買い取った事例もある〔#武蔵建造記録77頁「造船所周辺からの望見禁止」〕。 姉妹艦の大和よりも遅れて起工された武蔵には、大和建造中に判明した不具合の改善や旗艦設備の充実が追加指示された〔。しかし、もとよりドック内で建造された大和と異なり、船台上で建造された武蔵は、「船台から海面に下ろし進水させる」という余分なステップを踏まねばならなかった。重量軽減のため、舷側や主要防御区画の装甲を進水後に取り付けたほどである〔#秋元記録29頁〕。更に工事の途中で太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発した為、1942年(昭和17年)12月の完成という予定から同年6月に工期を大幅に繰り上げるよう厳しく督促された〔#武藏上64頁〕。そこで厳重な機密保持の中、作業に当たった人々は、超人的な努力で事に当たり、見事に成し遂げたのである。これらの経緯は吉村昭の『戦艦武蔵』および牧野茂/古賀繁一監修『戦艦武蔵建造記録』(アテネ書房)に詳しい。 このような厳重な機密保持のもとではあったが、新人製図工による図面紛失事件や〔#武蔵ノート100-102頁〕、熟練工でも困難な進水台の作成など、建造には常に障害が相次いだ。進水時には船体が外部に露見してしまうため、当日(1940年(昭和15年)11月1日)を「防空演習」として付近住民の外出を禁じ、付近一帯に憲兵・警察署員ら600名、佐世保鎮守府海兵団隊員1200名などを配置した〔#豊田 レイテ147-149頁、 #武蔵建造記録103頁〕。このような厳重な警戒態勢の中で、及川古志郎海相、豊田副武艦政本部長らが列席のもと、進水式は挙行される。皇族の伏見宮博恭王でさえ、平服で式場に入り、その後軍服に着替えるという徹底ぶりであった〔#内藤レクイエム152頁、#武蔵建造記録103頁〕。 進水時に進水台を潤滑する、獣脂の調製・製造にも多大な労力が必要だった〔#武蔵建造記録163-164頁「獣脂に関する諸試験」〕。錨鎖をあらかじめ減速用の重りとして付け、長崎造船所第二船台から狭い長崎港内に滑り込んだ武蔵の船体は、予定どおり艦尾をやや左に振って停止したが〔#内藤レクイエム151-152頁〕制動までに44mよけいにかかった〔#内藤レクイエム155頁〕。この時、周辺の海岸に予想外の高波が発生した。周辺河川では水位が一気に30センチ上昇したところもあり、船台対岸の浪の平地区の民家では床上浸水を生じ、畳を汚損したとの被害報告も確認されている〔#武蔵建造記録183頁〕。進水式は映像として記録されたが、終戦時に焼却された〔#武蔵建造記録177頁〕。無事に進水した際には、関係者の涙が止まらなかったという〔「毎日新聞連載 日本造船十話」p.8〕。同日附をもって正式に『武蔵』と命名〔。なお軍務局の寺崎隆治(海兵50期)や、及川大臣の秘書官として進水式に参加した福地誠夫によれば、武蔵の存在を排水量4万トン程度の戦艦として世界に公表する予定であったが、豊田艦政本部長の反対により急遽中止された〔#海軍反省会2163頁〕。 進水後は日本郵船の大型貨客船春日丸(後に空母大鷹に改造)に隠されながら移動し、向島艤装岸壁で工事が進められた〔#内藤レクイエム156頁〕。艦中央部右舷に設置された司令部施設に関しては、大和を建造中の呉工廠が内装への自信を持てず、豪華客船建造の実績がある長崎三菱造船所に依頼して、武蔵と全く同じ調度品を揃えて大和に搭載した〔原『伝承・戦艦大和 上』37頁〕。それでも武蔵の方が調度品が良かったという証言がある〔#戸高2007、95頁。土肥一夫(連合艦隊参謀)談〕。真珠湾攻撃により太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発すると、長崎の住民も武蔵のことを公然と話題に出すようになっていった〔#海軍驕り72頁〕。また武蔵進水後も第一船台は簾で隠されており、市民は「武蔵がもう1隻いる」と噂していた〔#艦と人129頁〕。造船所で発生した夜間火災で簾ごしに巨大艦の姿が浮かびあがり人々を驚かせたが、これは第二船台で建造中の空母隼鷹(橿原丸)であった〔。 艦内には「武蔵神社」があり、御神体は武蔵国氷川神社から分霊したものだった〔#内藤レクイエム215頁〕。位置は上甲板右舷、長官室・艦長室前の通路上である〔#武蔵建造記録145、279頁〕。竣工式に氷川神社の神主が招かれており〔#武藏上84頁〕、また伊勢神宮、長崎諏訪神社の系列社もあったとされる〔#武蔵ノート146頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「武蔵 (戦艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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